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わたしの話ですいません。
ちょっと語らせてください。

 

日本社会のはみだしっ子

とにかくでかい子だった。
幼稚園入園時。すでによそのお子様よりも頭ひとつ分大きかった。
小学校では健康手帳に自分の身長も体重も書き込めたことがない。
わたしのサイズは大人たちの想定外で、グラフを大きくはみ出しちゃうのだ。
子供服も着れない。
電車やバスでも大人料金を払え!とつかまる始末。
幼いころから「わたしは生まれるべき国を間違えたに違いない...」と、
デリバリー先を間違えたコウノトリに恨みをつのらせておりました。

「コウノトリが間違えたのなら、本当のお届け先へ自力で行ってやろう!」
そう決意したのは小学校2年生の時。
「絶対アメリカへ行ってやる!」と誓ったのでした。
(当時外国といったら巨人の国アメリカしか知らなかったのでした。)

我が家は、ごく普通のサラリーマン家庭。
金などないが「わたしは絶対留学する!」と小学校の頃から燃えているわたしに親はNOとは言えなかった。
バイトで貯めたお金と親の借金のおかげで、わたしは高校2年生の時に交換留学生としてアメリカは、
ニューハンプシャー州の小さな町へと飛び立った。そしてそのままアメリカの大学を受験し、インディアナ州の
小さな大学へ進学したのでした。学費の一部は奨学金をもらい、体育会のバスケとソフトボール部に所属。
それも「遠征に行けば、食事がタダで食べられる!」「冬休みや春休みにトレー二ングキャンプに行けば3食宿つき!」
という理由から勉強と部活とに忙しくしながら、なにもない田舎町でつつましく生活する留学生をしていた。

母国であると思っていたアメリカで3年近く学生をし、気が付いたことは「わたしは日本人だ」ってこと。
でかかろうが、どんなにアメリカにかぶれてみたって、わたしはアメリカではただの「ガイジン」にすぎなかった。
幼いころからアメリカ!アメリカ!って騒いできて、アメリカに住めば自分が救われると思ってきたが、アメリカ人を
真似して生きてどうする?っと自分に問うようになった。
「わたしは日本人なんだ!」
「もっと日本を知り尽くさなきゃいけないんじゃないかあ?」
と、わたしは「日本」に開眼したのであった。
そしてわたしは、「巨漢で何が悪い!こんなわたしでも日本社会は受け入れなくてはいけないのだ!」
と鼻息荒く日本へ帰っていった。

 

わたしは、わたし。 
大学3年から東京の大学へ編入。
女子学生がもてはやされ、こてこてに化粧してブランドものを着こなす派手なオネエチャンがキャンパスを闊歩する中、
わたしはいつでもGパンにメンズのシャツ。学食で湯飲み茶わんに日本酒をついでは、プハーっとやってる硬派な
女子大生をしていた。なんてたって自分に合う服も(身長177センチ)、靴も(26センチ甲高幅広)、男も
(大男は大女はきらい)、日本にはない。世の中のトレンドを大きくはみだしたわたしは、世の中のみなさんとは違う
レールを自分で敷きながら豪快に生きることをモットーとした。
自分の信じることを、自分のテンポでやっていくのだと。
「大女」「オトコ女」「怪物」...なんといわれようが「わたしは、わたし」と前向きに。

 

社会人デビュー

「自分が社会でどう評価されるのか、おもしろいからみてやろう」
と面白半分で参加した就職活動。
「わたしは豪快さんと呼ばれている」で始まる自己PR文を持って、いろんな業種を受けてみた。
スチュワーデス(当時はまだそう呼んでいた)は、「でかすぎる」といわれた。
銀行は最終面接で「ふざけている」といわれた。
TV局は一次で即刻落された(なぜだあ!)。
わたしを認めてくれたのは、広告代理店のH社だった(隠さなくてもいいか、博報堂ね)。
「こんな大手が!」
「わたしを選んでくれるなんて!」
のしのし我が道をいきながらも「日本社会のはみ出し者」とコンプレックスにもなっていたわたしって存在。
しかし、この会社ではそれを「ユニークな個性」と認めてくれた。
なんてご立派な会社だこと!
はみ出していてよかった!
日本でやっと居場所を見つけた気がした。

会社は、個性的な人々が集まるとてもおもしろいところであった。
いい友、いい上司に恵まれ、毎日会社に行くのが楽しかった。
「このままここで骨をうずめるぞー!」っと思っていたのに、アメリカ人と結婚し人生設計はくずれ、
再びアメリカへ旅立つはめになる。

 

こつこつやってりゃいいことは、ある!

30歳で友人も仕事も収入もない異国の地で、ゼロからのスタート。
車の運転もできずアパートにこもりっぱなしの毎日。おまけに子供も生まれた。
「普通の女だったらノイローゼーなってるぞバカ野郎!」
亭主をののしりながら初めての育児と主婦業と格闘していた。

「育児の合間に何かできないか?」
あたりをキョロキョロ見渡していたら目にとまったのが地元の日本語新聞。
読んでみてもなにか一味足らぬ気がして
「わたしにスパイシーなコラムを書かせてください!」と企画書を持ってプレゼンをした。
そして「いじり放題」という連載を始めた。
1コラム30ドル。それでも一生懸命書いた。

すると1年後、それを読んだアメリカ人が
「我が社の日本語ウエッブサイトでコンテンツを書いてくれませんか?」
と声をかけてくれた。
「書くだけじゃなくてもっとできますよ!」
と、これまた持ち込みプレゼンをしたら、今度はそのベンチャー企業の副社長にしてくれた。
そしてしばらくそこで一生懸命働いた。

いいたいことをはっきりいわずにすまない性格ゆえ、社長とよくケンカをした。
「自分で自分の社長になってみっか」
そう思いたち、今度は自分の会社を作って自分が面白いとおもうことだけを一生懸命やることにした。
そうしたら「本でも書いてみない?」とオファーがあった。

 

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こつこつやってりゃいいことがある!いいことあったあれこれ。

 

いつも心にFeisty を!

ゼロになってしまったと思った30歳から紆余曲折を経て、アメリカにはもう18年もいる。
いつでもどこでもファイスティーな心を持ち続ければきっとなにかいいことがある。
人生、逆境をこやしにしてこそ実りも多い。
わたしは、そう信じている。
わたしは今日もLet’s Go Feisty! と自分にかけ声をかけ、ファイスティー道を極めようとがんばっている。

みなさんも、Let’s Go Feisty!


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